ヒグマは国内で最大の陸上生物であり、大きなオスになると体重は400㎏を超えます。ヒグマは山間部を中心に北海道のほぼ全域に分布しており、知床半島では基部から知床岬の突端まで彼らの生息地が広がっています。体が大きく力の強いヒグマは、北海道の自然を象徴する存在となっています。
その一方で、ときに人身被害や経済被害をもたらす存在でもあります。しかしながら、多くの場合、そういった被害はヒグマをよく知り、対策をすることで防ぐことができます。ここでは、知床半島のヒグマの特徴や暮らしぶりを紹介します。
ヒグマは、個体ごとに異なる体色をしており、胸部斑紋(ツキノワ)という外見的特徴も個体によって様々です。近年はカメラの性能が著しく向上しており、知床では目の前に現れたヒグマを高倍率のカメラで撮影し、撮影された画像を基に出没個体を特定する取り組みを日常的に行っています。外見的特徴を基にした個体識別と、糞や体毛を用いたDNA分析をあわせて実施することで、この数年間で知床半島のヒグマの個体識別は飛躍的に進みました。
春は目覚めの季節、ヒグマが冬眠から明けてくるのは、まだ積雪の残る3~4月です。一般的に冬眠明けの順番は、単独のヒグマが早く、親子ヒグマは遅いと言われています。冬眠明けの時期は毎年同じではなく、年によってすこしずつ異なります。春期に気温が高く、融雪が早く進むような年は冬眠明けが早くなるように、冬眠明けの時期は融雪状況や気象条件に大きく左右されるのです。
冬眠から明けたヒグマは、餓死したエゾシカ、芽吹き始めたばかりのイラクサなどの草本やイタヤカエデの新芽、前年の秋期にミズナラが豊作であれば、融雪で雪の下から出てきたミズナラのドングリを食べます。春先はエゾシカにとって最も厳しい時期、蓄えた脂肪をすっかり使い果たし、弱って動きが緩慢になる個体もいます。普段は生きた動物を捕らえて食べることは少ないヒグマですが、この時期は栄養状態が悪く弱ったエゾシカを積極的に襲って食べることもあります。
初夏はヒグマにとって繁殖期と子別れの時期です。ヒグマのオスとメスが一緒に行動することは基本的にありませんが、この時期だけは唯一異なり、オスは繁殖の機会を伺い、メスをひたすら追いかけます。本来は警戒心の強いオス成獣が、メスを追いかけて人前に姿を現すこともあります。また1~2年を共に過ごした親と子が、繁殖期を前に別々に行動するようになることも多いです。
この時期のヒグマの主な食物は、ミズバショウやフキ、セリ科の草本、エゾヤマザクラや高山帯に生育するハイマツなどの果実、セミやアリなどの昆虫と、多岐に渡ります。またエゾシカの新生子や海鳥のひなを狙って、草地をうろうろと歩き回る姿や海岸の崖によじ登る姿が観察されることもあります。栄養価の高い食べ物が乏しい春期から初夏にかけては、死亡して海岸に漂着する海獣類(アザラシやイルカ、トドなど)や魚類(イワシなど)も貴重な食物となっています。また、海岸に漂着した海藻に付着しているヨコエビなどの小さな甲殻類を食べることもあります。
道内ではエゾシカの個体数が増加し、それに伴う植生の劣化が各地で問題となっています。セリ科草本の優占する草原が、シカの採食圧ですっかりその姿を変えてしまったケースも少なくありません。かつて夏期の主食であったセリ科草本が減少したことで、ヒグマは代わりとなる食べ物を見つける必要性に迫られたはずです。道内で夏期に農作物被害が多く発生する背景には、そのような事情も考えられます。
秋の訪れは早く、知床では8月のお盆を過ぎると秋の風が吹き始めます。秋期は食欲の季節、厳しい冬を乗り切るため、ヒグマはたくさんの脂肪を蓄える必要があります。初秋、カラフトマスが川に本格的に遡上し始めると、ヒグマは川沿いや河口周辺に居着き、魚を捕まえては食べ、捕まえては食べを繰り返し、お腹を満たすまでひたすら食べ続けます。
本格的な秋を迎えると、森ではミズナラやカシワなどのドングリや、ヤマブドウ、コクワ(サルナシ)などの果実を利用できるようになります。また川ではシロザケが遡上を始めます。ヒグマはこれらをひたすら食べ、来るべき冬に向けてさらに脂肪を蓄えるのです。そして初冬を迎える12月頃、ヒグマは春までの冬眠に入ります。
利用できる食物が極端に少なくなる冬になると、ヒグマは穴の中で冬眠して過ごします。また妊娠したメスは冬眠穴の中で出産し、授乳して子を育てながら過ごします。冬眠穴は地面の土を自分で掘って作り、穴の奥には木の枝やササの葉を敷きこんだ寝床があります。穴の内部は意外と広く、奥行きは数mもあります。知床のヒグマは、冬眠穴として使用する新しい土穴を毎年作り、穴を再利用することはあまりありません。冬眠期間中は飲まず食わずで、排泄もいっさい行わず、秋までに蓄えた脂肪を使って厳しい冬を乗り越えます。
ヒグマが子を産み始める最初の年齢は4~6歳で、1度に1~3頭の子を産みます。ヒグマの出産間隔は2~3年が一般的です。関係行政機関が定めた「知床半島ヒグマ管理計画」では、繁殖の開始年齢を成獣の基準とし、5歳以上のヒグマを成獣として扱っています。
では成獣となったヒグマは、何歳まで生きるのでしょうか。知床で知られている最高齢のヒグマは、OR(オレンジ)と命名され、34歳で捕殺されたオスのヒグマです。このORを初めて確認したのは2008年7月、調査のために設置された生け捕り用のワナで捕獲されたのが始まりです。ORは体重255㎏、体長(鼻先からお尻までの長さ)165㎝という立派な体格の持ち主であり、その際に採取された前臼歯をもとに、2008年時点で29歳と推定されていました。当時の記録用紙には、「犬歯及び切歯の摩耗が著しい、相当な高齢である」と記されていました。
その後、ORが再び我々の前に姿を現したのは2012年11月のことでした。シロザケを目当てに河川沿いに姿を現し、4年ぶりに目にしたORは、他のヒグマとの闘いで負ったであろう傷で体中ぼろぼろの状態でした。その翌年、ORは知床半島の西側の羅臼町で、漁業者の作業場や漁港に頻繁に姿を現すようになり、2013年8月に捕殺されてしまいました。当時の記録には、「右臀部脂肪層が露出、右ヒザに古傷あり」と記されていました。DNA分析を用いたその後の調査から、ORはある時期に多数の子を知床半島に残しており、ヒグマ社会の中で強い力を持つオスであったことが明らかとなりました。通常、警戒心の強い成獣オスは人前にめったに姿を見せません。晩年になってORが人前に姿を現すようになったのは、高齢になり力が弱まり、若くて力の強い優位なオスに追い出されたのではないかと考えています。
ヒグマは海岸線から高山帯まで、知床の様々な環境を使って暮らしています。豊かな実りをもたらす森林、海の恵みをもたらす海岸や河川、知床の豊かな自然すべてがヒグマの暮らしを支えています。
アイヌはヒグマをカムイ(神)と崇めながら、長いあいだ彼らとうまく付き合ってきました。昨今は全国で、市街地や農地といった人里への野生鳥獣の出没が社会問題となっていますが、ヒグマは自然の中で一生懸命、かつしたたかに生きており、その生き様はいつの時代も変わりません。現代に生きる我々は、そうしたヒグマとどのように折り合いをつけ、どのような関係性を築いていくべきなのでしょうか。
原生的な姿を留めたままの自然がかろうじて残されている知床では、観光船から野生のヒグマを観察するツアーが人気プログラムのひとつとなっています。観光船からの観察は、ヒグマに対する人為的な影響(人馴れなど)を最小限に留めることができ、さらに人の安全をしっかり確保できるというメリットがあります。よりよい関係を築く第一歩は、まず相手のことをよく知ることが大切です。野生のヒグマをまだ見たことがない方は、知床で観光船に乗り、その存在を感じてみてはいかがでしょうか。